世阿弥的初心を踏まえた上で使うと、よいかもしれません。 名言は心の砦になります。
世阿弥がまだ12歳の頃、お父さんの観阿弥と一緒に猿楽能をしていたところ、当時の室町幕府将軍の足利義満の目に留まりました。 斜めうえから、もう1人の自分が自分を操る。
関連記事 低学歴,人脈なし,金なしの人生お先まっ暗だった ちなみに僕は人さまに自慢できる過去を持ちあせているわけではありませんし、むしろいま考えると恥ずかしい過去ばかりです。
16世阿弥はよく「花」に例えて話をします。
名言を自分のものとするには、まずしっかり自分に刻み込むことが必要です。 どんなことをしてもどんな環境でも使うような言葉になるかと思うので、今一度、言葉の意味や用法を確認してみて下さい。
次に 「時々の初心忘るべからず」というのは、能の役者でもそこそこの年齢に達すると、舞台に 上がっても、馴れてきて平氣になる。 」 『花鏡』奥段 「初心忘るべからず」は、ふつう「何事においても、始めた頃の謙虚で真剣な気持ちを持ち続けていかねばならない」という意味で使いますが、世阿弥が花鏡の中で説明している意味は、ずいぶん違っています。
初心に戻ることで何かいいアイデアや解決案が見つかることはよくありますよね。
その意味は 学び始めた当時の未熟さや経験を忘れてはならない、物事を始めたことの 謙虚で真剣な気持ち 常に 志したときの意気込みと、謙虚さをもつことを意味している。
「能ある鷹は爪を隠す」と似てますね。 (本書「はじめに」�. 人生も芸と同じ 世阿弥は芸について語っていましたが、「初心忘るべからず」は人生そのものに当てはまります。 さらに、それまで農村部中心だった活動の拠点を奈良の都へと引っ越し、自分の一座を「田楽」ではなく「猿楽」の一座として名声を高めるため、寺社仏閣での実績を積んでいきました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー この時「初心」とは、新しい事態に直面した時の対処方法、 すなわち、試練を乗り越えていく考え方を意味しています。
やがて、舞いが最高調に達すると花は開化して馥郁(ふくいく)たる香氣が発散して、見る人々は恍惚としてその至芸に没入する。 田楽とは、重労働のコメ作り農家を景気づけるための「賑やかし役」のことです。
もし観阿弥が若者のような動きの大きな舞をしていたら、世阿弥が見た花は現れなかったでしょう。
老後の初心忘るべからず。
自分に満足してしまわないように、過去を振り返りつつ、40代は40代の、50代は50代の年齢ごとでできる努力を続けていきなさいという教えです。
世阿弥が伝書として一番最初に書いた書物が「 風姿花伝」ですが、「 初心忘れるべからず」はこの「 風姿花伝」の中に出てくる言葉です。