上横手は、『』が鎌倉幕府によって編纂された史書であるにもかかわらず、頼朝や梶原の厳しさや冷酷さ、悪辣さを最も強烈に描き、一方で義経に対し同情的な記述 すら置いていると指摘した 上で、『吾妻鏡』が北条氏の立場を正当化する史書である以上、北条氏によって破滅へと追い込まれた梶原が悪辣な人物として描かれるのは当然のことであるが、それに対応する形で判官贔屓が成立し、義経を人気者・善玉とすると同時に北条氏陣営に引き込む結果となっていることは注目に値することであり、判官贔屓が「北条氏によって、直接であれ、間接であれ、操作されているのだとすれば、その歴史的意識もまた洗い直されなければならないだろう」と述べている。 「新田冠者」は文治五年奥州合戦で捕虜となった樋爪五郎季衡の子経衡に冠されている名称であるので、使者は経衡だった可能性もあるが、義経の首級を届けるという重要な任務の遂行を、泰衡が自らの弟に託したと考えるのはそう不自然なことではないと思われる。
判官贔屓と義経生存伝説 義経の死については、その直後からこれを否定する噂が人々の間に流れ 、そこから義経が(北海道)、さらには中国大陸へと逃れとなったとする伝説が生まれた。
Japanese sympathy for the underdog. 講談などで語られるいわゆる「源義経19臣」は、武蔵坊弁慶、常陸坊海尊、佐藤継信、佐藤忠信、鎌田藤太、鎌田藤次、伊勢三郎、駿河次郎、亀井六郎、片岡八郎、鈴木三郎、熊井太郎、鷲尾三郎、御厨喜三太、江田源次、江田源三、堀弥太郎、赤井十郎、黒井五郎。 義経の一生を書いた『義経記』は室町時代の作品ですから、この頃に義経に正義を見出す読み方ができたのでしょう。
、160頁。 、で義経は精兵70騎を率いて、鵯越の峻険な崖から逆落としをしかけて平氏本陣を奇襲する。
ISBN 978-4-00-430914-7。
義経の所行、まことにもって義士というべきか)」「 義経大功ヲ成シ、ソノ栓ナシトイヘドモ、武勇ト仁義トニオイテハ、後代ノ佳名ヲノコスモノカ、歎美スベシ、歎美スベシ(義経は大功を成し、その甲斐もなかったが、武勇と仁義においては後代の佳名を残すものであろう。 『』では実は八男だったが武名を馳せた叔父・が鎮西八郎というであったのに遠慮して「九郎」としたとする説があるが、義朝の末子であることは確かである。
、191頁。
後白河院は義経の治安維持活動に期待して・に任じた。
(明治18年)刊。
、148頁。 また「弓流」の段で、海に落とした自分の弓を拾った逸話の際に「弱い弓」と自ら述べるなど、肉体的には非力である描写がされている。 容貌・体格 [ ] 義経の容貌に関して、同時代の人物が客観的に記したや、生前の義経自身を描いた確かなは存在しない。
8従って、『判官びいき』という諺が生まれ、流布する余地は、実は、判官義経の実人生が始まる前から用意されていたのである」と総括している。 また、転じて、「弱い側に肩入れする・弱い側に味方をする」という不公平さを示す表現としても用いられます。
だから真面目に頑張った人がたとえ不利な状況でも、 正々堂々と立ち向かう姿に感銘を受けるのです。