この葉書は芥川の自像写真の葉書とある。 水蒸氣ももやもやと立ち昇る。 亡くなる1,2年前まで何回か診察をしていた関係で、主治医は他にいたため主治医でこそなかったものの、服毒したものには茂吉の処方も含まれていました。
17) 革 カハの香や舶載の書に秋晴るる (三三八 十月十三日 石田幹之助宛。
直前の手紙文末尾に「僕は今スペイン風でねてゐます うつるといけないから來ちや駄目です 熱があつて咳が出て苦しい。 ) 春かへるおぼつかなさや粉煙草 (三九六 消印二月二十六日 松岡讓宛。 とても「余技」、一小説家の手すさびどころではない。
6兎に角芭蕉の口の悪いのには 屡 ( しばしば )門人たちも悩まされたらしい。
銅や真鍮製で、お燗に用いる容器。 「客棧」旅館・宿屋の意であるが、これはイスラム教の信者達を泊めるモスクに付随した(もしくは近くに備えた)という意味であろうか。 (三五六 十二月一日 池崎忠孝様宛。
「蓬をのばす草の道」の気品の高いのは云ふを待たぬ。
芥川自身、散文が本業であると語っているのだが、ここで留意したいのは、散文が詩人たちの仕事と密接な関係を持つと述べていることである。 該当部分を以下に引用する。 (略)この俳壇の門外漢たることだけは今後も永久に変らざらん乎」と書いていた言葉を紹介している。
13然らば如何なる流派にも属せぬ一人立ちの詩人はどうするのであらう? 且又この説に従へば、たとへば斎藤茂吉氏の「アララギ」へ歌を発表するのは名聞を求めぬことであり、「赤光」や「あら玉」を著はすのは「これ卑しき心より我上手なるを知られんと……」である! しかし又芭蕉はかう云つてゐる。 ) 灰墨のきしみ村黌の返り花 (三八二 一月三十一日 薄田淳介(泣菫)宛。
「日本の過去の詩の中には緑いろのものが何か動いてゐる。 病状が重篤ではなかったと思われるのは、その手紙に下の俳句を書いているためです。
』と記すのみである。
が、一方で、この感性はかなりオジン臭い。
手紙文に「僕は來月の新小説に芋粥と云ふ小説を書く 世評の惡いのは今から期待してゐる 偸盗と云ふ長篇を書きかけたが間にあひそうもないのでやめた 書きたいことが澤山ある材料に窮すると云ふことはうそだと思ふ どん/\書かなければ材料だつて出てきはしない 持つてゐる中に醗酵期を通り越すと腐つてしまふ 又書いて材料に窮するやうな作家なら創作をしてもしかたがない」と発想の噴出の抑えがたい喜悦に身を任せる彼が、ここにいる。 ] 庭芝に小みちまはりぬ花つつじ [やぶちゃん注:旧全集では、この句の注記として大正十三(一九二四)年九月刊の「百艸」に所収する「長崎日録」の大正十一年五月十四日の条参照とある。
後架の窓の外には竹が生えてゐる。 中田雅敏氏の「書簡俳句の展開」には、この句に触れて、『当時鎌倉、横須賀近辺で石油の採掘が行われていたらしい』とあるが、私は鎌倉生まれで現住するが、寡聞にしてそのような話は知らない。 唯それ等の詩形の中に何か命のあるものを感ずるのである。
7」 名人さへ一生を消磨した後、十句しか得られぬと云ふことになると、俳諧も亦閑事業ではない。
) 黑き熟るる實に露霜やだまり鳥 (四四九 九月二十二日 小島政二郎宛。 ] 秋の日や榎の 梢 うらの片なびき 伯母の言葉を 薄綿はのばし兼ねたる霜夜かな [やぶちゃん注:旧全集では、この句の注記として大正十三(一九二四)二月一日発行の雑誌『女性』に、全集後記によると「冬十題」という大見出しで掲載された(これは諸家十人の冬絡みの小品と言う意味であろう)、「霜夜」参照とある。 音楽を猛勉強したためか、第二次世界大戦で学徒動員令された際には軍楽隊に徴兵され、テナーサックスを担当しました。
14*初出:「歌壇」 1996年6月号(特集・短歌と他ジャンルの文学). しかしこの少数の作品を通じて、大体の趣味、傾向、句風等、及び俳句に対する氏の主観態度が、朧げながらも解らないことはない。 同氏の芭蕉研究を参照するが好い。